龍馬とおりょう
「龍馬とおりょう」
幕末の風雲児、坂本龍馬は、日本史上、織田信長と並んで、人気ナンバーワンの人物と言われている。
では、その妻だった「おりょう(お龍)」の生涯はどうだったか、大変興味深いところである。 かなり強烈な個性の持ち主だったようである。大酒は飲むし、ほらは吹く。 家事、裁縫はまったくと言って良いほどできなかったらしい。 土佐藩士は「有名な美人だが、賢夫人かどうかはわからない」と評している。つまり三つ指ついて、男を立ててというタイプではなかった。 今で言う、勝気なキャリアウーマンだったのかも・・「草食系男子になんか頼らなくても立派に生きてゆけるわよ。」って感じカナ。 しかし、龍馬を愛し、いや惚れていたでしょう。 「龍馬像」に陶酔してしまっていたでしょう。そこが、龍馬たる所以でしょう。
「京都の医家のお嬢さま」
おりょうは生粋の京女で、楢崎将作という漢方医の長女として、京都で生まれた。

父(楢崎将作)は、青蓮院宮(ショウレンインノミヤ)の侍医だった。宮家の王子の侍医となれば、そうとうな地位だろう。おりょうは、そんな家の令嬢であった。そのうえ、美人となれば、わがままに育つのも致し方ない。 料理、裁縫はダメ、しかし茶道、華道、香道などの心得があったという。
楢崎将作は勤王医者として活躍した。だが安政の大獄で捕まって入牢。その後、放免されたが、獄中で身体をこわしたか、まもなく亡くなった。
その為、家族は路頭に迷うこととなる。 お龍は、あやしげな旅館で働き、母は弟を連れて、勤王の志士たちの隠れ家でまかないを勤めた。妹たちが遊女として売られかけ、お龍が刃物片手に、取り戻してきたというエピソードもある。
そんな一家離散の憂き目に、龍馬が手を差し伸べたのだ。
「龍馬の命を救った機転」
龍馬は、寺田屋という船宿に、お龍の身柄を預けた。そして、龍馬の仲介により、薩長同盟が成立した、まさにその夜のことだった。龍馬は三吉慎蔵という長州藩士とともに、寺田屋の2階に滞在中、伏見奉行所の襲撃を受けたのだ。
この時、入浴中のお龍が、真っ先に気づいた。 全裸のまま、2階に駆け上がり、龍馬に知らせた。 その後、お龍は味方である薩摩藩の藩邸に無我夢中で知らせに走った。 龍馬は刀傷は負ったが、お龍のとっさの判断により一命をとりとめたのであった。 お龍の一途、大胆不敵な一面がみてとれる行動である。
「龍馬亡き後の流転」
若後家となったお龍は、高知の坂本家に引き取られた。だがそこには、もう一人の男勝り、乙女がいた。
お龍は「龍馬」と結ばれたが、坂本家に嫁いだ意識が薄く、家人との温度差がありほどなく離縁となり、高知を追われ、京都に舞い戻った。
晩年のおりょう(明治33年)
だが時は明治初頭の不況の最中。女一人、まともな仕事があるはずもない。お龍は龍馬以外の男性に、すがらざるをえなかった。それが西村松兵衛で、お龍より年下だが、もともと寺田屋の客で 呉服屋の若旦那だったといわれている。
二人は夫婦となり、横須賀に流れていった。当時、横須賀は海軍の町で、海援隊の元隊士たちが暮らしており、彼らを頼っていったらしい。
松兵衛は、子ども相手にルーレットのような賭けをさせて、日銭を稼ぐ大道商で、裏長屋で細々と暮らした。
だがお龍の死後、松兵衛は「坂本龍馬の妻」という墓を立てた。この行為は理解されにくいが、お龍は生涯、龍馬の妻だったことを誇りにし、松兵衛は傍らで、それを見守り続けたのだろう。 それが二人の愛の形であり、お龍は幸せだったにちがいない。 生涯、「龍馬」に抱かれて・・・・。
